2016☆ほんでNEWS No.241
■加藤紘一元衆議院議員が、9日
都内の病院で、肺炎のため亡くな
りました。享年77歳。
2000年、森内閣の倒閣を図った、
「加藤の乱」は記憶にあたらしい
ことでしょう。
(かなり前じゃない?)
(だまれ)
官房長官や自民党幹事長を歴任し、
一時は首相候補と目されました。
(今日は先生の功績を振り返ります)
葬儀は近親者のみで行われ、後日、
地元の山形県内で、お別れの会が
開かれる予定です。
(はいはい)
(静粛に!)
先生は、東大卒業後、外務省に
入省。1972年の衆院選で旧山形2区
から初当選。
(エリートやね)
大平派(宏池会、現岸田派)に所属。
「宏池会のプリンス」と呼ばれる。
(へぇ~)
中曽根内閣で防衛庁長官として初
入閣。91年、小泉純一郎元首相、
山崎拓元党副総裁との間で「YKK」
と称され、党内を牛耳る最大派閥、
竹下派(経世会)に対抗。
(ほー)
宮沢政権で官房長官、橋本政権で党
幹事長に、98年に宮沢喜一元首相か
ら宏池会会長を引き継ぎ、政界では
首相に最も近い人物と見られる。
しかし、
小渕恵三元首相が進めた自由、公明
両党との3党連立政権に反発、99年
の自民党総裁選で小渕氏に挑むも
敗北。
これにより、総裁選後は冷遇され、
片身が狭くなりました。
(なんのこれしき!)
次に、2000年11月、森政権の倒閣
を図った「加藤の乱」が、
大失敗。
また、2002年には、自身の元事務所
代表の脱税事件が発覚。責任を
問われ、派閥会長を辞任、
自民党を離党。
その後、
議員辞職に追い込まれました。
これで終わるものかと、
2003年、衆院選で再起を果たし、
自民党に復党。
しかし、14選を目指した2012年
衆院選で落選。政界を引退。
2014年5月には共産党機関紙、
「しんぶん赤旗」で、安倍政権による
集団的自衛権の行使容認を批判。
(ほとんど取り上げられませんでした)
(おわり?)
☆ほんで、
地盤を引き継いだのは三女で、
加藤鮎子自民党衆院議員(山形3区)。
(ご冥福をお祈りいたします)
(酔ってるの?)
(アガガガガ)
■つづく。